プロット 場所取り ハンガーストライキベース レッドサイド ◆ ぼくとグリーンが一緒に旅に出る約束をしたのは、まだ背丈も今よりずっと低かったころだ。 マサラの外れ、草むらの上に寝転がって、空を見ていた。 風が吹くたびに、草がざわざわと音を立てる。 「なあ」 隣で、グリーンが声を出した。 「旅に出る時はさ、一緒に行こうぜ」 あまりにも当然みたいに言うから、ぼくも当たり前みたいにうなずいた。 断る理由なんて、ひとつもなかった。 あのときは、それがずっと続くものだと思っていた。 旅に出る少し前になって、グリーンは突然、やっぱり一緒には行かないと言い出した。 「なんで?」 そう聞いたとき、彼は迷いなくこう言った。 「だって、つまんねーじゃん」 「つまんない?」 「一緒にいたら、競争できねえじゃん」 ――だから行かない。 冗談だと思った。でも次の言葉で、それが本気だとわかった。 「それに、おまえと一緒にいたら、チャンピオンになれねえから」 「すっとろいやつに付き合ってたら、一生無理だろ」 「おまえじゃ、おれについてこれねえよ」 彼はこちらを見ずにそう言った。 世界がひっくり返ったかと思った。 そのとき何を言い返したのかは、もう覚えていない。 ただ、彼が謝るまで、絶対に口をきかないと決めたことだけは、はっきり覚えている。 ◆ 旅に出る日。 ぼくは家の前で、少しだけ立ち止まっていた。 もしかしたら、あいつが来るかもしれない。 やっぱり一緒に行く、なんて言い出すかもしれない。 そんなことを考えて、ほんの少しだけ待った。 けれど、いくら待ってもグリーンは来なかった。 旅先で、何度も顔を合わせた。 そのたびに、あいつは当然みたいに話しかけてくる。 「おい、遅いぞ」 ぼくは返事をしなかった。 視線も向けずに、そのまま横を通り過ぎようとすると、毎回ボールが飛んできた。 何度かの敗北の後、ぼくは初めて彼に勝った。 そのとき初めて、ほんの少しだけ、胸の奥がすっとした。 ――見返してやる。 そう思った。 それからは、ただひたすらに進み続けた。 あいつに追いついて、追い越して、もう一度勝つために。 気がつけば、ぼくは頂点に立っていた。 チャンピオンの間は、思っていたよりも静かだった。 勝った瞬間は確かに高揚していたはずなのに、 そこに座り続けていると、だんだん息が詰まるようになってくる。 ここにいるのは、好きじゃない。 でも、あいつは違うみたいだった。 リーグに来るたびに、グリーンはそこにいた。 当然のように、ぼくの前に立つ。 「勝負だ」 ぼくは、それに応え続けた。 もはや意地だった。 ぼくとの約束を破ってまで、チャンピオンなんてつまらないものになりたがるのが許せなかった。 こんなところに縛られるのが、本当に君の目指してたものなの?と聞いてやりたかった。 勝負の後、あいつはすぐに立ち去る。 何かを言おうとしても、聞く耳なんて持っていない。 だったら、勝ち続ければいい。 そうすれば、少しは聞く気になるかもしれない。 そう思って、今日も勝つ。 それでも、あいつは振り返らない。 そんなやり取りを、何度繰り返しただろう。 四天王たちには、半ば呆れた顔をされるようになっていた。 「またか」 そんなふうに言われても、やめる気にはなれなかった。 これはもう、チャンピオンの座のためじゃない。 どちらが先に折れるか、我慢比べの勝負だった。 ◆ その日も、いつもと同じはずだった。 チャンピオンの間に足を踏み入れる。 けれど、そこには誰もいなかった。 静かすぎる空間に、足音だけが響く。 「……グリーン?」 返事はない。 代わりに、背後から足音が近づいてきた。 振り返ると、そこにいたのはワタルだった。 どうして、ここに。 問いかけるより先に、彼は口を開いた。 「彼は…」 一瞬、言葉が途切れる。 そのわずかな間に、嫌な予感だけが膨らんでいく。 「もう来ないよ」 ――勝った。 そう思った。 あれだけ邪魔をしていれば、さすがに嫌になったんだろう。 ようやく諦めたんだ。 無駄じゃなかった。 胸の奥で、何かが軽くなる。 これで、やっと一緒に旅に―― 「トキワジムを継ぐそうだ」 静かに告げられた言葉に、思考が止まった。 気づいたときには、走り出していた。 グリーンの家までの道を、ほとんど覚えていない。 息を切らして扉を叩くと、お姉さんが驚いた顔で出てきた。 事情もそこそこに、部屋へ通される。 部屋の中で、グリーンは机の方に向かって立っていた。 書類の束に目を落として、見終わったものを机の上に振り分けている。 ちらりと見えた書類には、トキワシティの写真が載っていた。 「……本当に、ジムリーダーになるの」 息を落ち着かせる間も惜しくて、切れ切れに問いかけた。 それに対して、彼は書類から目も上げずに答える。 「なるけど。それがどうしたよ」 胸の奥がどうしようもなくざわつく。 「…まだ、終わってない」 ようやく顔を上げた彼は、露骨に面倒くさそうな顔をした。 「それならジム来いよ。適当に相手してやるから」 ――適当に? その言葉が、引っかかった。 気づけば、口からこぼれていた。 「手加減して勝負するのの、何が楽しいんだって……」 「あのとき言ったのに、覚えてないの」 グリーンは、一瞬だけ目を細めてすぐに前に向き直って、こう言った。 「おまえには、わかんねえよ」 …わかってないのは、そっちだろ。 頭の奥で、何かが切れた。 言い返そうとした、その瞬間。 電子音が鳴った。 グリーンはそちらに意識を向け、慣れた手つきで操作すると、ぼくを一瞥もせずに部屋を出ていった。 部屋に一人、取り残される。グリーンはこちらを見ることもしなかった。 何かが、音を立てて崩れた気がした。 気づけば、窓を開けていた。 外に飛び出し、リザードンに跨る。 どこへ向かうかなんて、考えていなかった。 ただ、ここじゃないどこかへ。 森、海、洞窟、山。 どこもかしこも緑があった。 落ち着けるところを探して、ぼくはひたすら飛び続けた。 ◆ ――気づいたとき、そこは雪山の上だった。 吐く息は白くなって、風は肌を切るように冷たい。 それでも、頭の中は妙に静かだった。 あいつが、探しに来ればいい。 ジムリーダーなんてやめて、ぼくを探して。 そうしているうちに、思い出すはずだ。 旅のこと。自由だった時間のこと。 だから、ここで待つ。 日が過ぎるごとに、手持ちは強くなっていった。 この環境に適応して、研ぎ澄まされていく。 もし今戦えば、きっと圧勝できる。 回復なんてしなくても、二回は勝てる。 三回だっていけるかもしれない。 悔しそうに歯を食いしばる、あいつの顔が浮かぶ。 そうしたら、また挑んでくる。 ぼくが勝って、あいつがまた来て。 また勝って、また来て。 ここなら、終わらない。 あの場所みたいに。 ちゃんと、本気で戦える場所。 山頂に立つ。 雪が、視界を白く塗りつぶす。 その向こうに、カントーが広がっているはずなのに、 今はもう、ほとんど見えない。 それでも。 あいつなら、間違いなくここまで来る。 そう思っているのに。 今日も、彼は来ない。 ◆ 雪がやんだ、ある日のことだった。 この山にしては珍しく、風が穏やかで、視界も開けていた。 人影が見えた。 白い景色の中に、ぽつりと色が混じる。 黒と黄色の帽子。 近づいてくるのは、ひとりの少年だった。 年は、ぼくより少し下だろうか。 胸元で、バッジが光る。 その中に、見慣れた緑色を見つけた瞬間、指が勝手にボールに触れていた。 勝負は、すぐに決まった。 吹雪の名残で足場は悪く、少年の指示も、ほんの少しだけ遅れる。 そのわずかな差で、押し切った。 「……っ、くそ……!」 何か言っていた気がする。 けれど、もう興味はなかった。 視線は、山のふもとの方へ向いていた。 白く霞んだ向こう側。 今日も、来ない。 そう思ったときには、少年の姿はもうなかった。 ねぐらに戻る。 岩陰に作った、簡単な拠点。 風は防げるが、冷えは完全には消えない。 「……今日も来なかったな」 誰に言うでもなく、声が落ちる。 ノートを開く。 この三年で、書き溜めたものはずいぶん増えた。 話したいことが、山のようにあるからだ。 忘れないように、全部、書いておく。 出会ったポケモンのこと。 強かったやつ。珍しかったやつ。親子でいたやつ。 吹雪が止んで、空気がきらきらと光った日のこと。 名前も知らない木の実や、妙な落とし物。 一番驚いたのは、ピカチュウがキャンプ道具一式を抱えて戻ってきたときだった。 「……それ、落とし物じゃないでしょ」 さすがにそう言って、元の場所に戻させた。 けれど数日後、また同じものを拾ってきた。 落とし主は、相当なドジらしい。 この山のあたりには、妙にそういう物が多い。 ねぐらの中を見渡せば、そのほとんどが拾い物だった。 君なら、きっと言う。 「誰のか突き止めようぜ」って。 そんな声が、頭の中でやけに鮮明に響く。 ノートに視線を落とす。 今日のページに、さっきの少年のことを書き込んだ。 久しぶりの対戦だった。 少しだけ、楽しかった。 それから、何度もその少年は山に現れた。 会うたびに、強くなっていく。 最初はぎこちなかった指示も、次第に迷いがなくなる。 手持ちの連携も、洗練されていく。 ノートに同じ名前を書く回数が、増えていく。 いや、名前はまだ知らない。 十回目になるだろうか、とページをめくりながら思う。 「……名前、聞いてないな」 小さくつぶやいて、すぐにやめた。 グリーンなら、知っているのかもしれない。 そう考えた瞬間、思考を切った。 ◆ その日も、少年はやってきた。 勝負は、ぎりぎりだった。 一手、判断が遅れていれば、負けていたかもしれない。 「はあ……っ、はあ……」 息を切らしながら、それでも少年は悔しそうにこちらを睨む。 けれど、何も言わずに背を向けた。 そのまま、山を下りていく。 自分も前に向き直ると、よく知った名前が耳に届いた。 「……グリーンさん……!」 思わず振り返る。 少年は、何か小さな機械に向かって話していた。 聞き取れたのは、その名前だけ。 ――グリーン。 なるほど、と納得する。 この短期間での成長。 あいつが関わっているなら、説明はつく。 あいつは、昔からそうだった。 教えるのは、妙にうまい。 ……でも。 あいつは、知っているんだろうか。 この山で、そいつが誰と戦っているのか。 ノートを閉じる手が、わずかに止まった。 ◆ 負けた。 それが、どういうことなのか。 しばらく理解できなかった。 気づけば、山を下りていた。 足が、勝手に動いていた。 三年ぶりに入ったポケモンセンターは、やけに明るかった。 白い光が、目に刺さる。 思わず帽子を深く被る。 それでも、まだ眩しい。 機械的な音声が、淡々と流れている。 見慣れているはずなのに、どこか現実感がなかった。 ボールを差し出す。 手持ちが回復していく間、何も考えられなかった。 ねぐらに戻る。 ノートを開く。 手は、いつも通り動いた。 今日の勝負を書く。 ――負けた。 ここで、ようやく実感が追いついてきた。 正直なところ、泥仕合だった。 相手は、明らかに耐久戦に持ち込もうとしていた。 それは最初からわかっていた。 だから、速攻で押し切る。 それが、ずっと通用していたやり方だった。 だけど、今回はそれじゃ間に合わなかった。 ペン先が、紙の上で止まる。 もし、もう一度戦ったら。 同じことになる。 今のままじゃ、勝てない。 「……じゃあ、どうする」 声に出す。 次はどうやって勝つか。 それを考えるのは、嫌いじゃない。 むしろ、楽しいはずだった。 でも今回ばかりは、何も思い浮かばない。 ふと、横を見る。 昔からの癖だった。 わからなくなったときは、隣を見る。 そこにいるやつが、当たり前みたいに答えを出すから。 けれど。 そこには、何もなかった。 ただの空間が、広がっているだけだった。 『……当たり前だろ』 どこからか、そんな声がした気がした。 ノートに視線を落とす。 書き溜めたページを、指先でなぞる。 三年分。 話したいことが、全部、ここにある。 それなのに、一度も、話していない。 ページを閉じて、立ち上がった。 ぼくは、山を下りることにした。 ◆ その日は、やけに天気が良かった。 雲ひとつない空。 雪に反射した光が、やけに眩しい。 山頂から、そのままリザードンに乗る。 風を切って、一気に高度を下げる。 見下ろした景色は、少し変わっていた。 建物が増えている。 道も整備されている。 トキワシティが、記憶よりも広く見えた。 目的地までは、迷うまでもなかった。 トキワジム。 あいつがいる場所。 入口の前で、足が止まる。 何を言うかなんて、考えていなかった。 今さら何を言えばいいのかも、わからない。 しばらく、そのまま立ち尽くす。 そのときだった。 「ピカ!」 ボールが、勝手に開く。 飛び出したピカチュウが、迷いなく駆け出した。 ジムの裏手へ。 慌てて追いかけて、角を曲がる。 そこで、足が止まった。 そこにいた。 ピカチュウの頭を、慣れた手つきで撫でている。 グリーンが。 自分の記憶より背が伸びていた。 髪も少し長くなっている。 けれど、その仕草だけは、何も変わっていなかった。 こちらに気づいたピカチュウが、振り向いた。 次の瞬間、一直線に駆けてくる。 それを合図にしたみたいに、グリーンの手がボールにかかった。 視線が、ぶつかる。 言葉は、いらなかった。 「……戻れ」 ピカチュウに、短く指示を出す。 踵を返し、こちらへ戻ってくる。 ――続きだ。 三年前の、あの日の。 終わっていなかった勝負が。 今、また始まった。 ◆ 勝負は、引き分けだった。 どちらのポケモンも動かなくなったところで、ようやく終わりを迎えた。 気づけば、周りには人が集まっていた。 いつの間にかできていた輪の中から、人を押しのけながらこちらに近づいてきている人がいた。 「グリーン!」 グリーンのお姉さん――ナナミさんだった。 人込みを抜けて、こちらに臆することなく近づいてくる。 「ちょっと、何してるの!こんなに地面ボコボコにして!」 次の瞬間には、説教が始まった。 それを聞いて、何の騒ぎだとジムの人たちも出てきた。 そのままナナミさんの横に集まって、グリーンにお説教をしている。 グリーンが叱られている、その横で。 「レッドくんもよ!どれだけ心配したと思ってるの!」 ぼくも叱られていた。 言い返す間もなく、次々と言葉が降ってくる。 ふと横を見ると、グリーンがこちらを見て、笑っていた。 「何笑ってるんですか!」 それをジムの人たちに見咎められて、グリーンが顔をしかめる。 ざまあみろと思った。 ◆ どれくらい経っただろう。 ようやく解放されたころには、ギャラリーはすっかりいなくなっていた。 ジムの人たちも、それぞれの持ち場へ戻っていく。 ナナミさんも、「あとでちゃんとお家に顔出しなさいね」と言い残して去っていった。 残されたのは、ぼくとグリーンと。 「ちゃんと片付けてくださいね」と押し付けられた掃除道具だけ。 ふと、空を見上げる。 遠くに、シロガネ山が見えた。 あの場所は、静かだった。 誰も来ない。 いくら地面を抉っても、怒るやつはいない。 「……山でやれば、怒られなかったのに」 山を見ながら、思わずぽつりとこぼす。 次の瞬間、横から拳が飛んできた。 「痛っ……!」 「あのな!ジムでやれば怒られなかったんだよ!」 グリーンは、これでもかっていう声量でぼくを怒鳴りつけた。 ぶん殴られた頭をかばいながら、言われた言葉を思い返して、ようやく腑に落ちた。 ――ああ、そういうことか。 セキエイリーグでやれば、また迷惑がかかる。 だから、ジムでやる。 「……君がジムリーダーになったのって、そういうこと?」 三年前、彼はそう考えたんだろう。 あのとき言われた言葉を思い出す。 『それならジム来いよ。適当に相手してやるから』 視線を向けると、グリーンは少しだけ気まずそうに目を逸らした。 彼も自分の言い方がまずかった事は、わかっているらしい。 でも、責める資格は、ぼくにはない。 そのまま黙って掃除を始めた。 グリーンも何も言わず、同じように動く。 言葉はなかった。 けれど、不思議と居心地は悪くなかった。 片付けが終わると、ぼくはそのままグリーンに引きずられて家へ連れて行かれた。 扉を開けると、母さんがいつも通りの顔で迎えてくれる。 「おかえり、レッド」 テーブルの上には、ごちそうが並んでいた。 たぶん、ナナミさんが連絡してくれていたんだろう。 けれど「その前に」と、また腕を掴まれる。 「ちょっと来い」 グリーンはかあさんに軽く会釈してから、ぼくをひきずって外に出た。 ◆ 連れて行かれたのは、研究所だった。 「じいさん!レッド帰ってきた!」 その声を聞いて、奥から紙の束を抱えた博士が出てきた。 ぼくの顔を見た瞬間。 手にしていたそれを、全部落とした。 「……レッド」 次の瞬間には、強く抱きしめられていた。 「よく戻ってきたな」 不思議な気持ちだった。 ぼくは戻ってこないと思われていたんだなと、改めて思った。 顔を上げると、グリーンがこちらを見ていた。 一人で反省しろとでも言いたげな顔だった。 そのまま、何も言わずに外へ踵を返す。 その時、 「……グリーンも、だ」 と博士の声が、引き留めるように、静かに響いた。 ぼくは、その腕を掴んで引き寄せた。 グリーンは、抵抗しなかった。 ◆ その日の夕飯は、四人で囲んだ。 母さんと、ナナミさんと、グリーンと。 テーブルいっぱいの料理。 三年分を埋めるみたいに、時間が流れていく。 「そういえば、山で戦ったやつ、いたんだけど」 知ってる?と聞くと、グリーンは話し出した。 名前は、ヒビキ。 聞いてみると、やっぱりグリーンが面倒を見ていたらしい。 「そりゃ強いわけだ」 そう言うと、グリーンは露骨に得意げな顔をした。 腹が立ったので、話題を変えた。 今度は、グリーンが話し始める。 見たことのないポケモンの話。 新しい進化。 知らない地方。 三年で、こんなにも違うのかと思う。 どれも、面白かった。 そして、どうしようもなく、寂しくなった。 「……ぼく、また旅に出る」 気づけば、そう言っていた。 明日でも、すぐにでも。 グリーンが見てきたものを、全部、自分の目で見たくなった。 グリーンは、驚いた様子もなく頷いた。 「そーかよ」 それだけ。 少しだけ、拍子抜けした。 「定期的に連絡はしろよな」 そう言って、グリーンは笑った。 ◆ 次の日の朝、天気は快晴。 母さんたちに見送られて、外に出た。 リザードンに乗って、グリーンの方へ振り返る。 目線があった瞬間、 『一緒に行こう』 って言葉を、飲み込んだ。 ぼくには、その言葉を言う資格がないと思ったから。 あのとき。 あいつがジムリーダーになるって決めたときに、言うべきだった言葉だったから。 逃げたのは、ぼくの方だ。 もう振り返らずに、空へ上がる。 町が、小さくなっていく。 視線を、前へ向けた。 「はやく追いつかなきゃ」 そう思った。 グリーンサイド ◆ 昔、レッドと一緒に旅に出る約束をした。 ……結局、やめたけどな。 あいつと一緒にいたら、たぶん楽だったと思う。 でも、それじゃダメだと思った。 なれあってたら、上には行けない。 じいさんだって、一人でやってたらしいし。 強くなるなら、一人の方がいい。 そう思った。 それに、おれは早く強くならなきゃいけなかった。 姉ちゃんを、安心させるために。 レッドだって同じだろ、と思った。 あいつだって、おばさんを安心させたいはずだ。 だったら、一緒に行く理由なんて、ない。 「おまえじゃついて来れねえよ」 口から出たのは、そんな言葉だった。 もっとマシな言い方、いくらでもあったはずなのに。 旅に出てからも、何度も顔を合わせた。 そのたびに、あいつは無茶をしていた。 勝手に危ないところに首を突っ込んで、 ギリギリでなんとかする。 見てるこっちが、ひやひやさせられた。 『やっぱり、一緒に旅すりゃよかった』 と、何度か本気で思った。 でも、今さら言えるわけがない。 それでも、気づけば、おれたちは同じ場所に立っていた。 あそこにいれば、何度でも戦える。 何度でも、あいつと。 ――悪くない、と思った。 けど、いつまでも、こんなことやってられるわけじゃない。 それくらいは、わかってた。 だから場所を変えることにした。 ジムなら、リーグに迷惑をかけることはないし。 多少壊しても、文句は言われないし。 ……あいつも、来やすいだろ。 そう思って、おれはジムリーダーになった。 レッドには、何も言わなかった。 言ったら、色々言われそうだったから。 その翌日。 あいつは、消えた。 ◆ 朝。 「レッドくん、どこ行ったか知らない?」 姉ちゃんにそう聞かれて、一瞬、何も考えられなくなった。 「一週間くらい、帰ってないらしいの」 言葉が、やけに遠く聞こえる。 ――おれのせいだ。 頭のどこかで、そう思った。 「……知らない」 首を横に振る。 それしかできなかった。 「見つけたら、帰るように言ってね」 そう言われて、うなずいた。 口に入れたパンは、味がしなかった。 ぼそぼそしたそれを、無理やり水で流し込んで家を出た。 ◆ ひとまず、あいつが行きそうな場所は全部あたった。 町、森、洞窟、海沿い。 思いつく限り、時間の許す限り、全部行った。 聞き込みもした。 誰も見ていないと言った。 最後に、ナツメのところへ行った。 藁にもすがる思いだった。 「……山にいるわ」 それを聞いて、カントー中の山を片っ端から回った。 ピジョットに乗って、上から探す。 ――いた。 シロガネ山の頂上。 白の中に、赤がひとつ。 その周りを、黄色い影がぐるぐる回っている。 双眼鏡を下ろしたとき、変な笑いが漏れた。 雪の中を登る。 風が強い。 視界も悪い。 それでも、足は止まらなかった。 頂上に着いたら、言ってやることはいくらでもあった。 勝手に消えんな。 おばさんに心配かけんな。 ジムのことだって―― 頭の中で並べているうちに、気づけば、あいつの姿が肉眼で見える位置まで来ていた。 立っていた。 ただ、それだけだった。 雪の上に、突っ立って、微動だにしない。 その視線を追うと、その先にリーグが見えた。 ――ああ。 その瞬間、全部つながった。 あいつは、ここに、作ってるんだ。 あの場所を。 最初は、強さを証明するためだけの場所だったはずだ。 でも、何度もやってるうちに、あれはそういう場所じゃなくなった。 あそこにいれば、終わらない。 勝って、負けて、またやって。 それだけでいいと思ってしまう。 だから、抜け出した。 あいつは、雪の中、ずっと動かない。 声をかければ、きっと動くだろう。 でもやめた。 今呼んだら、終わる。 必ず、勝負になる。 あいつがここにいる限り、おれはやる。 抜け出したはずの場所に、また戻ることになる。 何なら前よりひどい。 こんな場所で待ち続けるなんて、正気じゃない。 なのに、否定できなかった。 むしろ、『いいな』って思った。 一生、あいつとだけ戦っていられるならそれでもいい。 そんなことバカみたいなこと考えてるのが自分だけじゃないって分かって、笑い転げそうになった。 見つからないように、来た道を引き返す。 十分に距離を取って、ようやく息を吐いた。 「……はは」 笑いが、止まらなかった。 雪の中で、一人で笑う。 あいつが先か。おれが先か。 どっちが、折れるか。 「……勝負だな」 誰に聞かせるでもなくそう呟いて、山を後にした。 ◆ レッドが消えてから、一か月。 あいつは当然のように山にいる。 双眼鏡を覗く。 頂上、白の中に、赤がひとつ。 相変わらず動かない。 食事は、木の実と缶詰。 缶詰は、ピカチュウが運んでいるらしい。 「……世話されてんのかよ」 小さく笑って、双眼鏡を下ろした。 三か月。 季節が変わる。 木の実は減ったはずだ。 ピカチュウの帰り道に、携帯食を置いておく。 それに気づいた黄色い毛玉が、一瞬、こちらを見た。 そのまま、迷うことなく持っていった。 ……気づいてるな。 でも、レッドは知らないみたいだった。 あいつは今日も、動かない。 雪の降り始めた山頂に、今日も半袖で突っ立っている。 吐息は白くなっていた。 気付けばリザードンがそばに居ることが多くなった。 レッドが出してるのか、リザードンが自分から出てるのかは分からない。 ニュースで寒波の話を聞くようになった。 レッドを見つけたって、言おうと思った。 見つけたけど、オレじゃ降ろせそうにないって。 姉ちゃんとおばさんに、言ってしまおうと思った。 そう思って、夜、姉ちゃんとおばさんに相談しようとした。 ちょうど二人はリビングで話していた。 おばさんがすすり泣く声が聞こえて、オレは階段で足を止めた。 「大丈夫、グリーンが見つけてるみたいだから」 「…そうね、グリーンくんなら安心だわ…。 ごめんなさい、ちょっと不安になっちゃって」 「大丈夫…大丈夫よ。あの子たちならきっと」 オレは部屋に戻った。 …おばさんたちに頼んでも、解決しないことは分かり切っていたのに。 レッドは二人の言うことでもきっと聞かない。 あれを何とかするのはオレの役目だ。 自分が楽になりたいからって、二人に頼むのは筋違いだ。 オレは布団をかぶって、目をつぶった。 おばさんの小さな後ろ姿が、焼き付いて離れなかった。 その夜、夢を見た。 レッドを引きずり下ろす夢。 また山に勝手に登らないように、ボールを全部取り上げた。 ボールを新たに手に入れられないように、各所に張り紙をした。 「レッドにボールを与えないでください」 って内容だったと思う。我ながらバカみたいな内容だ。 ジムにいる間だけ、ボールを返してやった。 挑戦者を軒並み返り討ちにしていくやつは、ずっと外を見ていた。 何をしていても、ずっと外――山の方を見ている。 そこで目が覚めた。 心臓がバクバクと音を立てていた。 冷汗が背中を伝う。 その日の昼、久しぶりにリーグに足を運んだ。 ロビーの椅子でぼーっとしていると、よく見知った顔が近づいてきた。 四天王のトップ、ワタルだ。 マントを翻しながら、オレの横に立つ。 「久しぶりだね、ジムはどうだい?」 「…まー、ぼちぼち」 適当に生返事をする。 ワタルはそれをとがめることもなく、話をつづけた。 「君のことは、ジムにいるトレーナーからよくやってるって聞いてるよ」 「…へいへい」 「…で?ジムをサボって彼を探してたようだけど、見つけたのか?」 その目は見つけたんだろう?と言っていた。 「……」 見つけたって言ったら、こいつはなんて言うんだろう。 じゃあとっとと連れ戻してこい、か。 それができたら、している。 何も言わずにいると、ワタルは前を見たまま話しだした。 「連れ戻すことは、俺でも出来る」 「…その後は、俺ではどうすることもできない」 立ち上がって、こちらを見る。 「君がリーグに戻れば、案外あっさり動くかもしれないね」 「……ジムとリーグ、両方やれって?」 そんな時間ねえよと鼻で笑うと、ワタルは笑って釘を刺した。 「そういう話じゃないよ」 「大体、ジムに君が居なくても、回ることは実証済みじゃないか」 「……」 黙っていると、ワタルは小さく笑ってからこちらを見た。 「何かあれば連絡してくれ」 「まあ、君たちにそんな心配はしていないが」 それだけ言って、去っていった。 レッドが消えて半年。 グレンじまが、消えた。 火山が噴いて、町がひとつなくなった。 焦げた匂いが、しばらく取れなかった。 できることなんて、ほとんどなかった。 島にいた人の逃げ道を作るだけで、精一杯だった。 空から見た景色が、焼き付いている。 その帰り、山へ向かった。 もういい。 負けでいい。 あいつを、下ろす。 ピジョットから降りる。 いつものようにボールに戻そうとしたのに、戻ろうとしない。 「戻れ」と口で言おうとした瞬間、ピジョットは空へ舞い上がった。 何度も旋回して、やがて降りてきた。 そのままじっと、こっちを見てくる。 それから、山頂の方へくちばしを向けた。 つられて、その先を見る。 炎が、揺れていた。 赤い光が、雪の中で瞬く。 リザードンだ。 しばらくして、消えた。 視線を戻す。 ピジョットが、まだこっちを見ている。 ――わかった。 そう伝えるよう頷くと、ピジョットはようやくボールに戻った。 その日は、そのまま家へ帰った。 それから、山を見るのをやめた。 あいつらがいるからだ。 ピジョットに物資だけ渡して、報告だけ聞く。 おれが行かなくても、なんとかなる。 何かあれば、きっと伝わる。 居なくなって三年。 レッドは、まだ降りてこない。 ◆ ある日。 黒と黄色の帽子をかぶったトレーナーが来た。 ヒビキ、と名乗った。 人の良さそうなやつだった。 けど、勝負のときだけ目が変わる。 率直に言うなら、あいつによく似てた。 バッジを渡す。 そいつは、そのまま山へ向かった。 シロガネ山。 しばらくして、また顔を出した。 「こてんぱんにやられましたぁ!」 半泣きでそう言っていたのに、ここ最近は、 「あとちょっとで勝てそうです!」 と同じ口でそう言っている。 呑み込みが、異様に早い。 思わず舌を巻いた。 まあ、あいつが相手ならな。 今日も、たぶん戦ってるんだろう。 何気なく、山の方を見る。 めずらしく、頂上が晴れていた。 「……見えるかもな」 窓越しに目を細める。 その時、ピジョットのボールが大きく揺れた。 「なんだよ」 苦笑して、裏口へ回る。 出してやるかとボールホルダーに手をかけて、何かが横を抜けた。 一瞬、目で追う。 黄色。 「……」 手が止まる。 見覚えのあるしっぽだ。 三年ぶりでも、間違えるわけがない。 足元に戻ってきたそれを、抱き上げる。 「ピッ!」 短く鳴いて挨拶した後、すぐにそいつは腕から抜け出した。 その先を目で追う。 いた。 赤い帽子。 少しだけ背が伸びている。 服の丈が、前より短い。 けど、あの目は、変わってない。 こっちを見た。 言葉は、いらなかった。 ボールホルダーに、手をかける。 中で、早く出せと揺れている。 ――わかってる。 「……来いよ」 三年越しの勝負が始まった。 ◆ 勝負は、引き分けだった。 互いに速攻を仕掛けて、気づけばジムの周りはひどい有様になっていた。 当然のように怒られる。 その隣で、レッドは姉ちゃんに叱られていた。 「どれだけ心配したと思ってるの!」 ざまあみろと思った。 一通り怒られたあと、スコップを押し付けられる。 黙々と地面を埋めていると、隣でレッドがなんも考えてない顔でつぶやいた。 「……山でやれば怒られなかったのに」 思わず、スコップから手を放して、一発ぶんなぐった。 目を白黒させているレッドに、ずっと思ってたことを言ってやった。 「ジムでやれば怒られなかったんだよ!」 ここ最近で一番大きな声が出た。 レッドは、しばらく瞬きを繰り返してから。 「……そういうこと?」 ようやく気づいた、みたいな顔をした。 三年前。 あの場所に居続けるわけにはいかないと思って。 オレなりに出した答えが、これだった。 レッドは、別の答えを選んだけど。 それが極寒の山なのが、こいつらしい。 「バカかよ」 小さく呟く。 ……まあ、言わなかったおれもバカか。 レッドは言い返してこなかった。 そのまま、何も言わずに作業を続けた。 片付けが終わって、若干嫌がるレッドを引きずって家に連れ帰る。 おばさんは、いつも通りの顔でレッドを迎えた。 じいさんのところにも顔を出して。 そのあと、また戻って。 気づけば、四人で夕飯を食べていた。 レッドが、山の話をする。 知ってる話もあれば、初めて聞く話もある。 どれも、妙に楽しそうだった。 「……ほんと、何でも楽しめるな」 思わず、そう思う。 代わりに、おれの話もしてやる。 他の地方の話。 見たことのないポケモン。 レッドは、わかりやすく食いついた。 変わってないな、と思った。 その夜、レッドはまた旅に出ると言った。 まあ、あいつらしい。 翌朝、旅立つ前、何か言おうとしているように見えた。 けど、何も言わずに、そのまま空へ上がっていった。 背中が、小さくなっていく。 もう姿が見えなくなった空から、視線を外した。 ジムの方へ歩き出す。 あいつはたぶん、三年分、取り返してくる。 見たもの全部、いずれ、持って帰ってくる。 だったら。 「……場所くらい、残しといてやるよ」 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。 それと、負けてられないな、と思った。 少しくらいは、こっちも用意しとかないと。 空を見上げる。 もう、姿は見えない。 ――次は、どっちが勝つか。 口の端が、少しだけ上がった。 追記 次は一緒に 「明後日、オレんち集合な?」 いつもの短いメール。 送り主は、あの幼馴染。 「いいよ」 それだけ返して、荷物をまとめる。 今いる場所からなら、ちょうどいい。 ……たぶん、あいつもそれを分かってる。 少しだけ気に入らなくて、予定より早くマサラへ向かった。 「よお、レッド。思ったより早かったな」 ドアを開けた顔を見て、思う。 ――やっぱり分かってたな。 テーブルの上には、湯気の立つお茶が二つ載っていた。 無言で荷物を押し付ける。 「はい」 「珍しいな。……あ、これ美味いやつじゃん」 頷く。 向かい合って座る。 いつも通りの時間が流れる。 「お前どこ行ってたの?」 そこからは、いつものやつ。 あいつが話して。 こっちも話す。 写真を見せて。 笑って。 気づけば、外は暗くなっていた。 どこかから、夕飯の匂いがした。 多分僕の家だろう。 あいつが立ち上がる。 ——終わりの合図だ。 テーブルの上に広げたもろもろを、一緒に片付ける。 何も言わなくても分かる。 ドアの前に立つ。 「僕ん家くる?」 「今日はじいさんと外出る」 「そっか」 「おばさんによろしく」 「うん」 ドアに手をかける。 そのとき。 「……なあ」 いつもと違う声に、思わず振り返る。 少しだけ、間があった。 「お前さ」 珍しく言い淀む。 「次、どこ行くか決めてる?」 一瞬、言葉が出なかった。 「……決めてないけど」 なんとか答えた。 あいつが、こっちを見る。 まっすぐ。 少しだけ、息を吸ってから、言い切った。 「……次は、一緒に行くか?」 差し出されたのは、チケット。 行き先なんて、見なくてもよかった。 顔を上げる。 同じ顔をしている。 思わず、笑った。 「……行く」 力強く頷くと、あいつも昔みたいな顔で笑った。 おわり
ハンガーストライキベース
レッドサイド
◆
ぼくとグリーンが一緒に旅に出る約束をしたのは、まだ背丈も今よりずっと低かったころだ。
マサラの外れ、草むらの上に寝転がって、空を見ていた。
風が吹くたびに、草がざわざわと音を立てる。
「なあ」
隣で、グリーンが声を出した。
「旅に出る時はさ、一緒に行こうぜ」
あまりにも当然みたいに言うから、ぼくも当たり前みたいにうなずいた。
断る理由なんて、ひとつもなかった。
あのときは、それがずっと続くものだと思っていた。
旅に出る少し前になって、グリーンは突然、やっぱり一緒には行かないと言い出した。
「なんで?」
そう聞いたとき、彼は迷いなくこう言った。
「だって、つまんねーじゃん」
「つまんない?」
「一緒にいたら、競争できねえじゃん」
――だから行かない。
冗談だと思った。でも次の言葉で、それが本気だとわかった。
「それに、おまえと一緒にいたら、チャンピオンになれねえから」
「すっとろいやつに付き合ってたら、一生無理だろ」
「おまえじゃ、おれについてこれねえよ」
彼はこちらを見ずにそう言った。
世界がひっくり返ったかと思った。
そのとき何を言い返したのかは、もう覚えていない。
ただ、彼が謝るまで、絶対に口をきかないと決めたことだけは、はっきり覚えている。
◆
旅に出る日。
ぼくは家の前で、少しだけ立ち止まっていた。
もしかしたら、あいつが来るかもしれない。
やっぱり一緒に行く、なんて言い出すかもしれない。
そんなことを考えて、ほんの少しだけ待った。
けれど、いくら待ってもグリーンは来なかった。
旅先で、何度も顔を合わせた。
そのたびに、あいつは当然みたいに話しかけてくる。
「おい、遅いぞ」
ぼくは返事をしなかった。
視線も向けずに、そのまま横を通り過ぎようとすると、毎回ボールが飛んできた。
何度かの敗北の後、ぼくは初めて彼に勝った。
そのとき初めて、ほんの少しだけ、胸の奥がすっとした。
――見返してやる。
そう思った。
それからは、ただひたすらに進み続けた。
あいつに追いついて、追い越して、もう一度勝つために。
気がつけば、ぼくは頂点に立っていた。
チャンピオンの間は、思っていたよりも静かだった。
勝った瞬間は確かに高揚していたはずなのに、
そこに座り続けていると、だんだん息が詰まるようになってくる。
ここにいるのは、好きじゃない。
でも、あいつは違うみたいだった。
リーグに来るたびに、グリーンはそこにいた。
当然のように、ぼくの前に立つ。
「勝負だ」
ぼくは、それに応え続けた。
もはや意地だった。
ぼくとの約束を破ってまで、チャンピオンなんてつまらないものになりたがるのが許せなかった。
こんなところに縛られるのが、本当に君の目指してたものなの?と聞いてやりたかった。
勝負の後、あいつはすぐに立ち去る。
何かを言おうとしても、聞く耳なんて持っていない。
だったら、勝ち続ければいい。
そうすれば、少しは聞く気になるかもしれない。
そう思って、今日も勝つ。
それでも、あいつは振り返らない。
そんなやり取りを、何度繰り返しただろう。
四天王たちには、半ば呆れた顔をされるようになっていた。
「またか」
そんなふうに言われても、やめる気にはなれなかった。
これはもう、チャンピオンの座のためじゃない。
どちらが先に折れるか、我慢比べの勝負だった。
◆
その日も、いつもと同じはずだった。
チャンピオンの間に足を踏み入れる。
けれど、そこには誰もいなかった。
静かすぎる空間に、足音だけが響く。
「……グリーン?」
返事はない。
代わりに、背後から足音が近づいてきた。
振り返ると、そこにいたのはワタルだった。
どうして、ここに。
問いかけるより先に、彼は口を開いた。
「彼は…」
一瞬、言葉が途切れる。
そのわずかな間に、嫌な予感だけが膨らんでいく。
「もう来ないよ」
――勝った。
そう思った。
あれだけ邪魔をしていれば、さすがに嫌になったんだろう。
ようやく諦めたんだ。
無駄じゃなかった。
胸の奥で、何かが軽くなる。
これで、やっと一緒に旅に――
「トキワジムを継ぐそうだ」
静かに告げられた言葉に、思考が止まった。
気づいたときには、走り出していた。
グリーンの家までの道を、ほとんど覚えていない。
息を切らして扉を叩くと、お姉さんが驚いた顔で出てきた。
事情もそこそこに、部屋へ通される。
部屋の中で、グリーンは机の方に向かって立っていた。
書類の束に目を落として、見終わったものを机の上に振り分けている。
ちらりと見えた書類には、トキワシティの写真が載っていた。
「……本当に、ジムリーダーになるの」
息を落ち着かせる間も惜しくて、切れ切れに問いかけた。
それに対して、彼は書類から目も上げずに答える。
「なるけど。それがどうしたよ」
胸の奥がどうしようもなくざわつく。
「…まだ、終わってない」
ようやく顔を上げた彼は、露骨に面倒くさそうな顔をした。
「それならジム来いよ。適当に相手してやるから」
――適当に?
その言葉が、引っかかった。
気づけば、口からこぼれていた。
「手加減して勝負するのの、何が楽しいんだって……」
「あのとき言ったのに、覚えてないの」
グリーンは、一瞬だけ目を細めてすぐに前に向き直って、こう言った。
「おまえには、わかんねえよ」
…わかってないのは、そっちだろ。
頭の奥で、何かが切れた。
言い返そうとした、その瞬間。
電子音が鳴った。
グリーンはそちらに意識を向け、慣れた手つきで操作すると、ぼくを一瞥もせずに部屋を出ていった。
部屋に一人、取り残される。グリーンはこちらを見ることもしなかった。
何かが、音を立てて崩れた気がした。
気づけば、窓を開けていた。
外に飛び出し、リザードンに跨る。
どこへ向かうかなんて、考えていなかった。
ただ、ここじゃないどこかへ。
森、海、洞窟、山。
どこもかしこも緑があった。
落ち着けるところを探して、ぼくはひたすら飛び続けた。
◆
――気づいたとき、そこは雪山の上だった。
吐く息は白くなって、風は肌を切るように冷たい。
それでも、頭の中は妙に静かだった。
あいつが、探しに来ればいい。
ジムリーダーなんてやめて、ぼくを探して。
そうしているうちに、思い出すはずだ。
旅のこと。自由だった時間のこと。
だから、ここで待つ。
日が過ぎるごとに、手持ちは強くなっていった。
この環境に適応して、研ぎ澄まされていく。
もし今戦えば、きっと圧勝できる。
回復なんてしなくても、二回は勝てる。
三回だっていけるかもしれない。
悔しそうに歯を食いしばる、あいつの顔が浮かぶ。
そうしたら、また挑んでくる。
ぼくが勝って、あいつがまた来て。
また勝って、また来て。
ここなら、終わらない。
あの場所みたいに。
ちゃんと、本気で戦える場所。
山頂に立つ。
雪が、視界を白く塗りつぶす。
その向こうに、カントーが広がっているはずなのに、
今はもう、ほとんど見えない。
それでも。
あいつなら、間違いなくここまで来る。
そう思っているのに。
今日も、彼は来ない。
◆
雪がやんだ、ある日のことだった。
この山にしては珍しく、風が穏やかで、視界も開けていた。
人影が見えた。
白い景色の中に、ぽつりと色が混じる。
黒と黄色の帽子。
近づいてくるのは、ひとりの少年だった。
年は、ぼくより少し下だろうか。
胸元で、バッジが光る。
その中に、見慣れた緑色を見つけた瞬間、指が勝手にボールに触れていた。
勝負は、すぐに決まった。
吹雪の名残で足場は悪く、少年の指示も、ほんの少しだけ遅れる。
そのわずかな差で、押し切った。
「……っ、くそ……!」
何か言っていた気がする。
けれど、もう興味はなかった。
視線は、山のふもとの方へ向いていた。
白く霞んだ向こう側。
今日も、来ない。
そう思ったときには、少年の姿はもうなかった。
ねぐらに戻る。
岩陰に作った、簡単な拠点。
風は防げるが、冷えは完全には消えない。
「……今日も来なかったな」
誰に言うでもなく、声が落ちる。
ノートを開く。
この三年で、書き溜めたものはずいぶん増えた。
話したいことが、山のようにあるからだ。
忘れないように、全部、書いておく。
出会ったポケモンのこと。
強かったやつ。珍しかったやつ。親子でいたやつ。
吹雪が止んで、空気がきらきらと光った日のこと。
名前も知らない木の実や、妙な落とし物。
一番驚いたのは、ピカチュウがキャンプ道具一式を抱えて戻ってきたときだった。
「……それ、落とし物じゃないでしょ」
さすがにそう言って、元の場所に戻させた。
けれど数日後、また同じものを拾ってきた。
落とし主は、相当なドジらしい。
この山のあたりには、妙にそういう物が多い。
ねぐらの中を見渡せば、そのほとんどが拾い物だった。
君なら、きっと言う。
「誰のか突き止めようぜ」って。
そんな声が、頭の中でやけに鮮明に響く。
ノートに視線を落とす。
今日のページに、さっきの少年のことを書き込んだ。
久しぶりの対戦だった。
少しだけ、楽しかった。
それから、何度もその少年は山に現れた。
会うたびに、強くなっていく。
最初はぎこちなかった指示も、次第に迷いがなくなる。
手持ちの連携も、洗練されていく。
ノートに同じ名前を書く回数が、増えていく。
いや、名前はまだ知らない。
十回目になるだろうか、とページをめくりながら思う。
「……名前、聞いてないな」
小さくつぶやいて、すぐにやめた。
グリーンなら、知っているのかもしれない。
そう考えた瞬間、思考を切った。
◆
その日も、少年はやってきた。
勝負は、ぎりぎりだった。
一手、判断が遅れていれば、負けていたかもしれない。
「はあ……っ、はあ……」
息を切らしながら、それでも少年は悔しそうにこちらを睨む。
けれど、何も言わずに背を向けた。
そのまま、山を下りていく。
自分も前に向き直ると、よく知った名前が耳に届いた。
「……グリーンさん……!」
思わず振り返る。
少年は、何か小さな機械に向かって話していた。
聞き取れたのは、その名前だけ。
――グリーン。
なるほど、と納得する。
この短期間での成長。
あいつが関わっているなら、説明はつく。
あいつは、昔からそうだった。
教えるのは、妙にうまい。
……でも。
あいつは、知っているんだろうか。
この山で、そいつが誰と戦っているのか。
ノートを閉じる手が、わずかに止まった。
◆
負けた。
それが、どういうことなのか。
しばらく理解できなかった。
気づけば、山を下りていた。
足が、勝手に動いていた。
三年ぶりに入ったポケモンセンターは、やけに明るかった。
白い光が、目に刺さる。
思わず帽子を深く被る。
それでも、まだ眩しい。
機械的な音声が、淡々と流れている。
見慣れているはずなのに、どこか現実感がなかった。
ボールを差し出す。
手持ちが回復していく間、何も考えられなかった。
ねぐらに戻る。
ノートを開く。
手は、いつも通り動いた。
今日の勝負を書く。
――負けた。
ここで、ようやく実感が追いついてきた。
正直なところ、泥仕合だった。
相手は、明らかに耐久戦に持ち込もうとしていた。
それは最初からわかっていた。
だから、速攻で押し切る。
それが、ずっと通用していたやり方だった。
だけど、今回はそれじゃ間に合わなかった。
ペン先が、紙の上で止まる。
もし、もう一度戦ったら。
同じことになる。
今のままじゃ、勝てない。
「……じゃあ、どうする」
声に出す。
次はどうやって勝つか。
それを考えるのは、嫌いじゃない。
むしろ、楽しいはずだった。
でも今回ばかりは、何も思い浮かばない。
ふと、横を見る。
昔からの癖だった。
わからなくなったときは、隣を見る。
そこにいるやつが、当たり前みたいに答えを出すから。
けれど。
そこには、何もなかった。
ただの空間が、広がっているだけだった。
『……当たり前だろ』
どこからか、そんな声がした気がした。
ノートに視線を落とす。
書き溜めたページを、指先でなぞる。
三年分。
話したいことが、全部、ここにある。
それなのに、一度も、話していない。
ページを閉じて、立ち上がった。
ぼくは、山を下りることにした。
◆
その日は、やけに天気が良かった。
雲ひとつない空。
雪に反射した光が、やけに眩しい。
山頂から、そのままリザードンに乗る。
風を切って、一気に高度を下げる。
見下ろした景色は、少し変わっていた。
建物が増えている。
道も整備されている。
トキワシティが、記憶よりも広く見えた。
目的地までは、迷うまでもなかった。
トキワジム。
あいつがいる場所。
入口の前で、足が止まる。
何を言うかなんて、考えていなかった。
今さら何を言えばいいのかも、わからない。
しばらく、そのまま立ち尽くす。
そのときだった。
「ピカ!」
ボールが、勝手に開く。
飛び出したピカチュウが、迷いなく駆け出した。
ジムの裏手へ。
慌てて追いかけて、角を曲がる。
そこで、足が止まった。
そこにいた。
ピカチュウの頭を、慣れた手つきで撫でている。
グリーンが。
自分の記憶より背が伸びていた。
髪も少し長くなっている。
けれど、その仕草だけは、何も変わっていなかった。
こちらに気づいたピカチュウが、振り向いた。
次の瞬間、一直線に駆けてくる。
それを合図にしたみたいに、グリーンの手がボールにかかった。
視線が、ぶつかる。
言葉は、いらなかった。
「……戻れ」
ピカチュウに、短く指示を出す。
踵を返し、こちらへ戻ってくる。
――続きだ。
三年前の、あの日の。
終わっていなかった勝負が。
今、また始まった。
◆
勝負は、引き分けだった。
どちらのポケモンも動かなくなったところで、ようやく終わりを迎えた。
気づけば、周りには人が集まっていた。
いつの間にかできていた輪の中から、人を押しのけながらこちらに近づいてきている人がいた。
「グリーン!」
グリーンのお姉さん――ナナミさんだった。
人込みを抜けて、こちらに臆することなく近づいてくる。
「ちょっと、何してるの!こんなに地面ボコボコにして!」
次の瞬間には、説教が始まった。
それを聞いて、何の騒ぎだとジムの人たちも出てきた。
そのままナナミさんの横に集まって、グリーンにお説教をしている。
グリーンが叱られている、その横で。
「レッドくんもよ!どれだけ心配したと思ってるの!」
ぼくも叱られていた。
言い返す間もなく、次々と言葉が降ってくる。
ふと横を見ると、グリーンがこちらを見て、笑っていた。
「何笑ってるんですか!」
それをジムの人たちに見咎められて、グリーンが顔をしかめる。
ざまあみろと思った。
◆
どれくらい経っただろう。
ようやく解放されたころには、ギャラリーはすっかりいなくなっていた。
ジムの人たちも、それぞれの持ち場へ戻っていく。
ナナミさんも、「あとでちゃんとお家に顔出しなさいね」と言い残して去っていった。
残されたのは、ぼくとグリーンと。
「ちゃんと片付けてくださいね」と押し付けられた掃除道具だけ。
ふと、空を見上げる。
遠くに、シロガネ山が見えた。
あの場所は、静かだった。
誰も来ない。
いくら地面を抉っても、怒るやつはいない。
「……山でやれば、怒られなかったのに」
山を見ながら、思わずぽつりとこぼす。
次の瞬間、横から拳が飛んできた。
「痛っ……!」
「あのな!ジムでやれば怒られなかったんだよ!」
グリーンは、これでもかっていう声量でぼくを怒鳴りつけた。
ぶん殴られた頭をかばいながら、言われた言葉を思い返して、ようやく腑に落ちた。
――ああ、そういうことか。
セキエイリーグでやれば、また迷惑がかかる。
だから、ジムでやる。
「……君がジムリーダーになったのって、そういうこと?」
三年前、彼はそう考えたんだろう。
あのとき言われた言葉を思い出す。
『それならジム来いよ。適当に相手してやるから』
視線を向けると、グリーンは少しだけ気まずそうに目を逸らした。
彼も自分の言い方がまずかった事は、わかっているらしい。
でも、責める資格は、ぼくにはない。
そのまま黙って掃除を始めた。
グリーンも何も言わず、同じように動く。
言葉はなかった。
けれど、不思議と居心地は悪くなかった。
片付けが終わると、ぼくはそのままグリーンに引きずられて家へ連れて行かれた。
扉を開けると、母さんがいつも通りの顔で迎えてくれる。
「おかえり、レッド」
テーブルの上には、ごちそうが並んでいた。
たぶん、ナナミさんが連絡してくれていたんだろう。
けれど「その前に」と、また腕を掴まれる。
「ちょっと来い」
グリーンはかあさんに軽く会釈してから、ぼくをひきずって外に出た。
◆
連れて行かれたのは、研究所だった。
「じいさん!レッド帰ってきた!」
その声を聞いて、奥から紙の束を抱えた博士が出てきた。
ぼくの顔を見た瞬間。
手にしていたそれを、全部落とした。
「……レッド」
次の瞬間には、強く抱きしめられていた。
「よく戻ってきたな」
不思議な気持ちだった。
ぼくは戻ってこないと思われていたんだなと、改めて思った。
顔を上げると、グリーンがこちらを見ていた。
一人で反省しろとでも言いたげな顔だった。
そのまま、何も言わずに外へ踵を返す。
その時、
「……グリーンも、だ」
と博士の声が、引き留めるように、静かに響いた。
ぼくは、その腕を掴んで引き寄せた。
グリーンは、抵抗しなかった。
◆
その日の夕飯は、四人で囲んだ。
母さんと、ナナミさんと、グリーンと。
テーブルいっぱいの料理。
三年分を埋めるみたいに、時間が流れていく。
「そういえば、山で戦ったやつ、いたんだけど」
知ってる?と聞くと、グリーンは話し出した。
名前は、ヒビキ。
聞いてみると、やっぱりグリーンが面倒を見ていたらしい。
「そりゃ強いわけだ」
そう言うと、グリーンは露骨に得意げな顔をした。
腹が立ったので、話題を変えた。
今度は、グリーンが話し始める。
見たことのないポケモンの話。
新しい進化。
知らない地方。
三年で、こんなにも違うのかと思う。
どれも、面白かった。
そして、どうしようもなく、寂しくなった。
「……ぼく、また旅に出る」
気づけば、そう言っていた。
明日でも、すぐにでも。
グリーンが見てきたものを、全部、自分の目で見たくなった。
グリーンは、驚いた様子もなく頷いた。
「そーかよ」
それだけ。
少しだけ、拍子抜けした。
「定期的に連絡はしろよな」
そう言って、グリーンは笑った。
◆
次の日の朝、天気は快晴。
母さんたちに見送られて、外に出た。
リザードンに乗って、グリーンの方へ振り返る。
目線があった瞬間、
『一緒に行こう』
って言葉を、飲み込んだ。
ぼくには、その言葉を言う資格がないと思ったから。
あのとき。
あいつがジムリーダーになるって決めたときに、言うべきだった言葉だったから。
逃げたのは、ぼくの方だ。
もう振り返らずに、空へ上がる。
町が、小さくなっていく。
視線を、前へ向けた。
「はやく追いつかなきゃ」
そう思った。
グリーンサイド
◆
昔、レッドと一緒に旅に出る約束をした。
……結局、やめたけどな。
あいつと一緒にいたら、たぶん楽だったと思う。
でも、それじゃダメだと思った。
なれあってたら、上には行けない。
じいさんだって、一人でやってたらしいし。
強くなるなら、一人の方がいい。
そう思った。
それに、おれは早く強くならなきゃいけなかった。
姉ちゃんを、安心させるために。
レッドだって同じだろ、と思った。
あいつだって、おばさんを安心させたいはずだ。
だったら、一緒に行く理由なんて、ない。
「おまえじゃついて来れねえよ」
口から出たのは、そんな言葉だった。
もっとマシな言い方、いくらでもあったはずなのに。
旅に出てからも、何度も顔を合わせた。
そのたびに、あいつは無茶をしていた。
勝手に危ないところに首を突っ込んで、
ギリギリでなんとかする。
見てるこっちが、ひやひやさせられた。
『やっぱり、一緒に旅すりゃよかった』
と、何度か本気で思った。
でも、今さら言えるわけがない。
それでも、気づけば、おれたちは同じ場所に立っていた。
あそこにいれば、何度でも戦える。
何度でも、あいつと。
――悪くない、と思った。
けど、いつまでも、こんなことやってられるわけじゃない。
それくらいは、わかってた。
だから場所を変えることにした。
ジムなら、リーグに迷惑をかけることはないし。
多少壊しても、文句は言われないし。
……あいつも、来やすいだろ。
そう思って、おれはジムリーダーになった。
レッドには、何も言わなかった。
言ったら、色々言われそうだったから。
その翌日。
あいつは、消えた。
◆
朝。
「レッドくん、どこ行ったか知らない?」
姉ちゃんにそう聞かれて、一瞬、何も考えられなくなった。
「一週間くらい、帰ってないらしいの」
言葉が、やけに遠く聞こえる。
――おれのせいだ。
頭のどこかで、そう思った。
「……知らない」
首を横に振る。
それしかできなかった。
「見つけたら、帰るように言ってね」
そう言われて、うなずいた。
口に入れたパンは、味がしなかった。
ぼそぼそしたそれを、無理やり水で流し込んで家を出た。
◆
ひとまず、あいつが行きそうな場所は全部あたった。
町、森、洞窟、海沿い。
思いつく限り、時間の許す限り、全部行った。
聞き込みもした。
誰も見ていないと言った。
最後に、ナツメのところへ行った。
藁にもすがる思いだった。
「……山にいるわ」
それを聞いて、カントー中の山を片っ端から回った。
ピジョットに乗って、上から探す。
――いた。
シロガネ山の頂上。
白の中に、赤がひとつ。
その周りを、黄色い影がぐるぐる回っている。
双眼鏡を下ろしたとき、変な笑いが漏れた。
雪の中を登る。
風が強い。
視界も悪い。
それでも、足は止まらなかった。
頂上に着いたら、言ってやることはいくらでもあった。
勝手に消えんな。
おばさんに心配かけんな。
ジムのことだって――
頭の中で並べているうちに、気づけば、あいつの姿が肉眼で見える位置まで来ていた。
立っていた。
ただ、それだけだった。
雪の上に、突っ立って、微動だにしない。
その視線を追うと、その先にリーグが見えた。
――ああ。
その瞬間、全部つながった。
あいつは、ここに、作ってるんだ。
あの場所を。
最初は、強さを証明するためだけの場所だったはずだ。
でも、何度もやってるうちに、あれはそういう場所じゃなくなった。
あそこにいれば、終わらない。
勝って、負けて、またやって。
それだけでいいと思ってしまう。
だから、抜け出した。
あいつは、雪の中、ずっと動かない。
声をかければ、きっと動くだろう。
でもやめた。
今呼んだら、終わる。
必ず、勝負になる。
あいつがここにいる限り、おれはやる。
抜け出したはずの場所に、また戻ることになる。
何なら前よりひどい。
こんな場所で待ち続けるなんて、正気じゃない。
なのに、否定できなかった。
むしろ、『いいな』って思った。
一生、あいつとだけ戦っていられるならそれでもいい。
そんなことバカみたいなこと考えてるのが自分だけじゃないって分かって、笑い転げそうになった。
見つからないように、来た道を引き返す。
十分に距離を取って、ようやく息を吐いた。
「……はは」
笑いが、止まらなかった。
雪の中で、一人で笑う。
あいつが先か。おれが先か。
どっちが、折れるか。
「……勝負だな」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、山を後にした。
◆
レッドが消えてから、一か月。
あいつは当然のように山にいる。
双眼鏡を覗く。
頂上、白の中に、赤がひとつ。
相変わらず動かない。
食事は、木の実と缶詰。
缶詰は、ピカチュウが運んでいるらしい。
「……世話されてんのかよ」
小さく笑って、双眼鏡を下ろした。
三か月。
季節が変わる。
木の実は減ったはずだ。
ピカチュウの帰り道に、携帯食を置いておく。
それに気づいた黄色い毛玉が、一瞬、こちらを見た。
そのまま、迷うことなく持っていった。
……気づいてるな。
でも、レッドは知らないみたいだった。
あいつは今日も、動かない。
雪の降り始めた山頂に、今日も半袖で突っ立っている。
吐息は白くなっていた。
気付けばリザードンがそばに居ることが多くなった。
レッドが出してるのか、リザードンが自分から出てるのかは分からない。
ニュースで寒波の話を聞くようになった。
レッドを見つけたって、言おうと思った。
見つけたけど、オレじゃ降ろせそうにないって。
姉ちゃんとおばさんに、言ってしまおうと思った。
そう思って、夜、姉ちゃんとおばさんに相談しようとした。
ちょうど二人はリビングで話していた。
おばさんがすすり泣く声が聞こえて、オレは階段で足を止めた。
「大丈夫、グリーンが見つけてるみたいだから」
「…そうね、グリーンくんなら安心だわ…。 ごめんなさい、ちょっと不安になっちゃって」
「大丈夫…大丈夫よ。あの子たちならきっと」
オレは部屋に戻った。
…おばさんたちに頼んでも、解決しないことは分かり切っていたのに。
レッドは二人の言うことでもきっと聞かない。
あれを何とかするのはオレの役目だ。
自分が楽になりたいからって、二人に頼むのは筋違いだ。
オレは布団をかぶって、目をつぶった。
おばさんの小さな後ろ姿が、焼き付いて離れなかった。
その夜、夢を見た。
レッドを引きずり下ろす夢。
また山に勝手に登らないように、ボールを全部取り上げた。
ボールを新たに手に入れられないように、各所に張り紙をした。
「レッドにボールを与えないでください」
って内容だったと思う。我ながらバカみたいな内容だ。
ジムにいる間だけ、ボールを返してやった。
挑戦者を軒並み返り討ちにしていくやつは、ずっと外を見ていた。
何をしていても、ずっと外――山の方を見ている。
そこで目が覚めた。
心臓がバクバクと音を立てていた。
冷汗が背中を伝う。
その日の昼、久しぶりにリーグに足を運んだ。
ロビーの椅子でぼーっとしていると、よく見知った顔が近づいてきた。
四天王のトップ、ワタルだ。
マントを翻しながら、オレの横に立つ。
「久しぶりだね、ジムはどうだい?」
「…まー、ぼちぼち」
適当に生返事をする。
ワタルはそれをとがめることもなく、話をつづけた。
「君のことは、ジムにいるトレーナーからよくやってるって聞いてるよ」
「…へいへい」
「…で?ジムをサボって彼を探してたようだけど、見つけたのか?」
その目は見つけたんだろう?と言っていた。
「……」
見つけたって言ったら、こいつはなんて言うんだろう。
じゃあとっとと連れ戻してこい、か。
それができたら、している。
何も言わずにいると、ワタルは前を見たまま話しだした。
「連れ戻すことは、俺でも出来る」
「…その後は、俺ではどうすることもできない」
立ち上がって、こちらを見る。
「君がリーグに戻れば、案外あっさり動くかもしれないね」
「……ジムとリーグ、両方やれって?」
そんな時間ねえよと鼻で笑うと、ワタルは笑って釘を刺した。
「そういう話じゃないよ」
「大体、ジムに君が居なくても、回ることは実証済みじゃないか」
「……」
黙っていると、ワタルは小さく笑ってからこちらを見た。
「何かあれば連絡してくれ」
「まあ、君たちにそんな心配はしていないが」
それだけ言って、去っていった。
レッドが消えて半年。
グレンじまが、消えた。
火山が噴いて、町がひとつなくなった。
焦げた匂いが、しばらく取れなかった。
できることなんて、ほとんどなかった。
島にいた人の逃げ道を作るだけで、精一杯だった。
空から見た景色が、焼き付いている。
その帰り、山へ向かった。
もういい。
負けでいい。
あいつを、下ろす。
ピジョットから降りる。
いつものようにボールに戻そうとしたのに、戻ろうとしない。
「戻れ」と口で言おうとした瞬間、ピジョットは空へ舞い上がった。
何度も旋回して、やがて降りてきた。
そのままじっと、こっちを見てくる。
それから、山頂の方へくちばしを向けた。
つられて、その先を見る。
炎が、揺れていた。
赤い光が、雪の中で瞬く。
リザードンだ。
しばらくして、消えた。
視線を戻す。
ピジョットが、まだこっちを見ている。
――わかった。
そう伝えるよう頷くと、ピジョットはようやくボールに戻った。
その日は、そのまま家へ帰った。
それから、山を見るのをやめた。
あいつらがいるからだ。
ピジョットに物資だけ渡して、報告だけ聞く。
おれが行かなくても、なんとかなる。
何かあれば、きっと伝わる。
居なくなって三年。
レッドは、まだ降りてこない。
◆
ある日。
黒と黄色の帽子をかぶったトレーナーが来た。
ヒビキ、と名乗った。
人の良さそうなやつだった。
けど、勝負のときだけ目が変わる。
率直に言うなら、あいつによく似てた。
バッジを渡す。
そいつは、そのまま山へ向かった。
シロガネ山。
しばらくして、また顔を出した。
「こてんぱんにやられましたぁ!」
半泣きでそう言っていたのに、ここ最近は、
「あとちょっとで勝てそうです!」
と同じ口でそう言っている。
呑み込みが、異様に早い。
思わず舌を巻いた。
まあ、あいつが相手ならな。
今日も、たぶん戦ってるんだろう。
何気なく、山の方を見る。
めずらしく、頂上が晴れていた。
「……見えるかもな」
窓越しに目を細める。
その時、ピジョットのボールが大きく揺れた。
「なんだよ」
苦笑して、裏口へ回る。
出してやるかとボールホルダーに手をかけて、何かが横を抜けた。
一瞬、目で追う。
黄色。
「……」
手が止まる。
見覚えのあるしっぽだ。
三年ぶりでも、間違えるわけがない。
足元に戻ってきたそれを、抱き上げる。
「ピッ!」
短く鳴いて挨拶した後、すぐにそいつは腕から抜け出した。
その先を目で追う。
いた。
赤い帽子。
少しだけ背が伸びている。
服の丈が、前より短い。
けど、あの目は、変わってない。
こっちを見た。
言葉は、いらなかった。
ボールホルダーに、手をかける。
中で、早く出せと揺れている。
――わかってる。
「……来いよ」
三年越しの勝負が始まった。
◆
勝負は、引き分けだった。
互いに速攻を仕掛けて、気づけばジムの周りはひどい有様になっていた。
当然のように怒られる。
その隣で、レッドは姉ちゃんに叱られていた。
「どれだけ心配したと思ってるの!」
ざまあみろと思った。
一通り怒られたあと、スコップを押し付けられる。
黙々と地面を埋めていると、隣でレッドがなんも考えてない顔でつぶやいた。
「……山でやれば怒られなかったのに」
思わず、スコップから手を放して、一発ぶんなぐった。
目を白黒させているレッドに、ずっと思ってたことを言ってやった。
「ジムでやれば怒られなかったんだよ!」
ここ最近で一番大きな声が出た。
レッドは、しばらく瞬きを繰り返してから。
「……そういうこと?」
ようやく気づいた、みたいな顔をした。
三年前。
あの場所に居続けるわけにはいかないと思って。
オレなりに出した答えが、これだった。
レッドは、別の答えを選んだけど。
それが極寒の山なのが、こいつらしい。
「バカかよ」
小さく呟く。
……まあ、言わなかったおれもバカか。
レッドは言い返してこなかった。
そのまま、何も言わずに作業を続けた。
片付けが終わって、若干嫌がるレッドを引きずって家に連れ帰る。
おばさんは、いつも通りの顔でレッドを迎えた。
じいさんのところにも顔を出して。
そのあと、また戻って。
気づけば、四人で夕飯を食べていた。
レッドが、山の話をする。
知ってる話もあれば、初めて聞く話もある。
どれも、妙に楽しそうだった。
「……ほんと、何でも楽しめるな」
思わず、そう思う。
代わりに、おれの話もしてやる。
他の地方の話。
見たことのないポケモン。
レッドは、わかりやすく食いついた。
変わってないな、と思った。
その夜、レッドはまた旅に出ると言った。
まあ、あいつらしい。
翌朝、旅立つ前、何か言おうとしているように見えた。
けど、何も言わずに、そのまま空へ上がっていった。
背中が、小さくなっていく。
もう姿が見えなくなった空から、視線を外した。
ジムの方へ歩き出す。
あいつはたぶん、三年分、取り返してくる。
見たもの全部、いずれ、持って帰ってくる。
だったら。
「……場所くらい、残しといてやるよ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
それと、負けてられないな、と思った。
少しくらいは、こっちも用意しとかないと。
空を見上げる。
もう、姿は見えない。
――次は、どっちが勝つか。
口の端が、少しだけ上がった。
追記
次は一緒に
「明後日、オレんち集合な?」
いつもの短いメール。
送り主は、あの幼馴染。
「いいよ」
それだけ返して、荷物をまとめる。
今いる場所からなら、ちょうどいい。
……たぶん、あいつもそれを分かってる。
少しだけ気に入らなくて、予定より早くマサラへ向かった。
「よお、レッド。思ったより早かったな」
ドアを開けた顔を見て、思う。
――やっぱり分かってたな。
テーブルの上には、湯気の立つお茶が二つ載っていた。
無言で荷物を押し付ける。
「はい」
「珍しいな。……あ、これ美味いやつじゃん」
頷く。
向かい合って座る。
いつも通りの時間が流れる。
「お前どこ行ってたの?」
そこからは、いつものやつ。
あいつが話して。
こっちも話す。
写真を見せて。
笑って。
気づけば、外は暗くなっていた。
どこかから、夕飯の匂いがした。
多分僕の家だろう。
あいつが立ち上がる。
——終わりの合図だ。
テーブルの上に広げたもろもろを、一緒に片付ける。
何も言わなくても分かる。
ドアの前に立つ。
「僕ん家くる?」
「今日はじいさんと外出る」
「そっか」
「おばさんによろしく」
「うん」
ドアに手をかける。
そのとき。
「……なあ」
いつもと違う声に、思わず振り返る。
少しだけ、間があった。
「お前さ」
珍しく言い淀む。
「次、どこ行くか決めてる?」
一瞬、言葉が出なかった。
「……決めてないけど」
なんとか答えた。
あいつが、こっちを見る。
まっすぐ。
少しだけ、息を吸ってから、言い切った。
「……次は、一緒に行くか?」
差し出されたのは、チケット。
行き先なんて、見なくてもよかった。
顔を上げる。
同じ顔をしている。
思わず、笑った。
「……行く」
力強く頷くと、あいつも昔みたいな顔で笑った。
おわり