グレン島にて
トキワジムを引き継いで、三年が経った。
その間、休みらしい休みはほとんど取っていなかった。
取れなかったわけじゃない。取らなかっただけだ。
ジムに行けば、やることはある。
挑戦者の相手。ジムトレーナーの育成。設備の点検。リーグへの報告書。町の会合。
面倒なことはいくらでもあったし、面倒なことがあるのは悪くなかった。
何かしていれば、余計なことを考えずに済む。
だから、ある日リーグから「溜まっている休暇を消化するように」と通達が来たとき、オレは心底困った。
急に休めと言われても困る。
翌日、いつも通りジムに顔を出したら、入口でジムトレーナーに止められた。
「リーダー、入っちゃダメですよ!」
「なんでだよ」
「休暇中だからです」
受付からわざわざ出てきて、オレの前に立ちはだかる。
横を通ろうとすると、露骨に通せんぼをされた。
「いや、ちょっと見るだけだって」
「ダメです。ナナミさんにも言われてます」
「姉ちゃん関係ねえだろ」
「関係あります」
ずいぶん強くなったもんだな、と思った。
育てたのはオレだ。文句は言えない。
結局、トキワジム立ち入り禁止令は解除されなかった。
適当にジムの執務室で時間をつぶそうと思っていたオレは、休暇初日から行くところがなくなった。
裏口からの侵入も当然のように阻止されたので、仕方なくその場を離れる。
家に戻るのも違う。
研究所に行けば、じいさんに捕まる。
リーグに顔を出せば、ワタルあたりに笑われる。
いろいろ考えた結果、グレン島に来た。
トキワからそこまで離れていなくて、かつ、人の目がほぼないところ。
ちょっと前に火山が噴いて、町ごとなくなった島。
波の音だけがしていた。
島の中腹に立ち、ぐるりと見渡す。
風が吹くたびに、細かい灰が足元を滑っていく。
何もなかった。
ジムも、研究所も、店も、荒れた屋敷も。
全部、溶岩に持っていかれてしまった。
ポケモンセンターだけが、かろうじて補給用に再建されている。
それ以外は、ほとんど手つかずだった。
本当に、何もない。
しばらく歩いてみた。
昔の道だったもの。建物の跡らしきもの。黒く固まった地面。波に削られて、少しずつ形を変えている海岸線。
どこを見ても、ここに町があったという実感が薄かった。
むしろ、最初から何もなかった場所みたいに見えた。
◆
半日ほど島をうろついて、さすがに飽きた。
やることがなくなると、ろくでもないことを考える。
それが分かっていたから、オレは海を渡って、近くのふたごじまへ向かった。
洞窟の中は、外よりずっと涼しかった。
岩肌を伝う水の音がしている。
道なりに進んでいくと、白いハットを被った人物が見えた。
「よお。なんか手伝えることある?」
少し離れたところから声をかけると、その人物、カツラは振り返って目を丸くした。
「んん?…トキワのリーダーか!久しいな!なんでまた、こんなところにおる」
被っていた帽子を少し上げ、こちらをしっかりと確認したカツラは、こちらに向かって歩いてきた。
「別に。なんとなく」
適当に返すと、カツラは帽子を軽く傾ける。
「なんとなくで来る場所ではないぞ、ここは」
「いいだろ、なんとなくだよ。で?なんかねーの?…暇すぎて死にそうなんだよ」
カツラは眉を上げ、すぐに困ったように笑った。
「ううむ。とはいっても、おまえさん休暇中だろう。働かせたら、わしが怒られる」
休暇の事、ここなら知られてないかなというオレの読みは見事打ち砕かれた。
こんな場所でもちゃんと情報が届いているらしい、という失礼な考えを奥に引っ込めて、交渉を続ける。
「ボランティアだよ、ボランティア。それに、あんたが言わなきゃバレっこねーだろ」
「そういう問題ではない」
「書類整理くらいあるだろ。やるって言ってんだから、やらせときゃいいんだよ」
「少年よ。休める時に休むこともまた、大事な修行でな」
「あー、そういうのいいって」
「……おまえさん」
やり取りの最中、カツラが目を細めた。
「さては、考えたくないことがあるな?」
一瞬、返事が遅れた。
「……なんの話だよ」
「いいだろう」
カツラは、それ以上追及しなかった。
代わりに背を向け、洞窟内の奥を手で指し示した。
「わしもちょうど休憩しようと思っていたところだ。少し付き合いなさい」
「……説教ならごめんだぜ」
「説教なんてせんよ。ただの休憩だ」
「なおさらごめんだ。オレは茶を飲みに来たんじゃねえの」
「分かっとる。話し相手も立派な仕事だろう?」
「仕事って言ったな、今」
「言葉のあやだ!」
カツラは豪快に笑うと、そのまま奥へと歩き出した。
他にやることもないので、それについて行く。
◆
通されたのは、洞窟の中に作られた簡単な居住スペースだった。
机と椅子。棚。書類の束。地図。古い写真立て。
暮らすには足りないが、居座るには十分な場所だった。
カツラは慣れた手つきで茶を淹れた。
差し出された湯呑みを受け取る。
湯気が、洞窟の冷えた空気に立ち昇って消えていく。
「……なあ。オレ、ほんとに茶飲みに来たんじゃねえんだけど」
「まあ聞きなさい。わしの話相手になるのが、おまえさんの今のやることだ」
「……」
反論する気も失せて、湯呑みに口をつける。
熱かった。
少し冷ましてから飲もうと思い、湯呑みを机に置いた。
カツラはゆっくりと対面に座り、自分の分の湯呑みに口をつけていた。
湯気が完全に消えたのを見て、また口をつける。
それと同時に、カツラはゆっくりと話し始めた。
「何もない場所を見に来る人間は、たいてい、何かを見ないようにしておる」
図星だった。
何を言っても余計なことのように思えて、そのままお茶をちびちびと飲み続ける。
カツラは、少しだけ遠くを見るような顔をした。
「むかしの話だ。わしには、古くからの友がおった」
その声は、普段の暑苦しい声より、だいぶ静かだった。
「ともに研究をし、寝る間を惜しんで議論をするような、そんな友がおった。わしと友は、別々の研究をしておったがな。それでも、よく話した。互いの研究のこと。これからのこと。つまらん失敗のことも、よく笑い合った」
カツラは湯呑みを両手で包み込む。
「友は、自分の研究がうまくいっていると喜んでおった。あれは、たしかに偉大な研究だった」
「…だが、まだ、わしらには早すぎた」
聞いたことのある話だった。
直接聞いたわけじゃない。
でも、グレンの屋敷に残された記録を読めば、だいたい察しはつく。
「研究によって、制御できない力を生み出してしまった友は、それを一人でなんとかしようとして、わしらの前から姿を消した」
カツラは、ほんの少し笑った。
「わしには、何も言ってくれんかった」
何も言わなかった人間の話。
姿を消した人間の話。
湯呑みの中の水面が、わずかに揺れた。
自分の指が動いたのだと、少し遅れて気づいた。
「分かっとる。わしに言ったところで、事態はなんも変わらんかった。姿を消す人間が、もう一人増えただけだったかもしれん」
「……」
「それでもな」
カツラは、目を伏せた。
「言ってほしかったとは、思っておる」
洞窟の奥で、何度か水の落ちる音がした。
水面が、また揺れている。
「わしは必死に探した。だが、見つからなんだ。何年もな」
水面は揺れ続けている。
カツラの方を見上げるのが怖かった。
相槌も打たずに黙っていると、カツラが湯呑みを机の上に置く音がした。
反射で目を上げると、カツラは少しだけ口元をゆるめていた。
「それでも、諦めきれんかった。帰ってくるかもしれんと思って、グレンの屋敷だけは守っとった」
カツラの視線が、遠くなる。
「今は、それもなくなってしまったがの」
そう言い終わってから、カツラはゆっくりと席を立った。
棚の上に置かれていた写真立てを手に取る。
「…この人だ」
差し出された写真を覗き込む。
少し煤けた、古い写真だった。
何人もの人と、ポケモンが写っている。その中心に、カツラと、穏やかに笑っている老人。
見覚えがあった。
「……おい、この人」
思わず立ち上がる。
「そうだ。今はシオンにおる」
「フジ老人、だよな」
「そうだ」
カツラはうなずいた。
「見つけたときの写真だ」
「……会ったのかよ」
「会ったぞ。ものすごく謝られた」
「……まあ、そうなるよな」
言われなくても分かる。
謝る側の気持ちは、分かりすぎるくらい分かる。
謝られる側の気持ちは、たぶん、もっと面倒くさい。
オレはもう一度、写真を見た。
写真の中のフジ老人は、シオンで見る顔より少し若い。
隣にいるカツラも、今より少し若かった。
「……あのさ」
「うむ?」
「なんで、まだグレンにいんの」
カツラは黙ってこちらを見た。
「もう、残したいものも…その、消えちまってるだろ。だったら、シオンに行けばよかったじゃん」
「ううむ」
カツラは困ったように笑った。
「わしも、そうしようかと思ったことはある」
そう言って、カツラは腕を組んで少し黙った。
しばらくして、斜め上を見ていたカツラは、ゆっくりとこちらを見て言った。
「でもな。もしもフジが、ほんの一度でも戻りたいと思ったときに、なんもなくては寂しいではないか?」
自分に言い聞かせているみたいな声だった。
もし、あの写真に写っていた老人が帰ってきたとして、何もないあの島に何を思うんだろう。
自分の失敗のあとが消えてうれしく思うのか、さみしく思うのか。
「……戻りたいと思うかな」
そもそもの話、自分の失敗した場所を見に来たがるだろうか?
そう思ったら、思わず口からこぼれ出た。
慌ててカツラの方を見ると、カツラはこちらを見て笑っていた。
「たぶん、もう戻ってこんだろうな」
こちらが拍子抜けするくらい、あっさりとした答えだった。
思わず目を瞬かせると、カツラは声をあげて笑った。
「それでも、一度くらいは、思うかもしれん」
「……そういうもん?」
「だと、わしは思っとる」
カツラは写真立ての縁を、指で軽く撫でた。
改めて見ると、写真立てはところどころ焦げていた。
その焦げのくぼみを、カツラはゆっくりとなぞっている。
「つらい記憶もある。間違えたこともある。取り返しのつかんことも、山ほどある。だが、楽しい思い出もあるからな。ここには」
「……そうかよ」
カツラはふと、こちらを見て、それからグレン島の方角に目をやった。
「帰るかどうかは、本人が決めること。だが、戻れる場所を残すかどうかは、残った者が決められる」
その言葉に、なぜか返事ができなかった。
カツラは立ち上がり、写真立てをそっと元の場所に戻した。
それから机の脇に立てかけてあったボードをおもむろに手に取った。
「ほれ、仕事だ」
「……なんだこれ」
受け取ると、そこにはグレン島の地図が挟まれていた。
ところどころに赤い線や丸が書き込まれている。
「地質調査の仕事だ」
「さっき働かせたら怒られるって言ってただろ」
「仕事ではない。ボランティア、だ!」
「便利な言葉だな」
「見ての通り、グレンじまは荒れ果てておる。ようやく平地を確保したが、再建にはまだまだ場所が要る。そこで、平地にしやすそうな地質の場所を調べてきてほしい」
「オレにできると思ってんの?」
「できるだろう?」
「……まあ、できるけど」
「なら頼む!」
カツラは笑った。
「休暇中の少年にしか頼めん、大事なボランティアだ!」
さっきまでの湿っぽさは微塵も感じられない、いい笑顔だった。
「少年って歳じゃねえよ」
「わしから見れば、十分少年よ」
言い返そうとして、やめた。
代わりに地図に目を落とす。
何もないと思っていた島に、線が引かれている。
線が引かれると、そこはただの更地ではなくなった。
これから何かになる場所に見えた。
「……どこから見りゃいい?」
「まずは西側の海岸沿いだな。足元が脆いところがあるから、ポケモンを出して行きなさい」
「分かった」
立ち上がる。
ボードを小脇に抱えて、洞窟の出口へ向かった。
背後から、カツラの声が飛んでくる。
「グリーン!」
いつもの暑苦しい声に呼ばれて、振り返る。
「今回は見逃してやるが、休めと言われたら、上手に休むのが大人、だ!」
「……やっぱ説教じゃねえか」
「はっはっは! 年寄りの話は、だいたい説教になるものだ!」
「開き直んな」
そう言いながらも、少しだけ笑ってしまった。
洞窟を出ると、潮の匂いがした。
右手側に、オレンジに染まったグレン島が見える。
何もない島。
何もなくなった島。
それでも、地図の上には線があった。
ピジョットを出す。
風を受けて、大きく翼が広がった。
「行くぞ」
短く声をかけると、ピジョットは低く鳴いた。
空へ上がる。
眼下に、黒く固まった大地が広がる。
さっきまでただの焼け跡にしか見えなかった場所に、今は少しだけ違うものが重なって見えた。
どこから手をつけるか。
どこを残すか。
どこを、作り直せるか。
そんなことを考えている自分に気づいて、少しだけ息をついた。
上手に休むってなんだよ、と思う。
でも、まあ。
何もしないよりは、ずっといい。畳む








シオンにて
トキワジム。
山を下りてから、ぼくはここに通うようになった。
一日一回、戦う。
引き分ける。
追い出される。
それの繰り返し。
ひと月くらいそれを繰り返しただろうか。
いつものように勝負が終わったあと、グリーンがふいに口を開いた。
「なあ。おまえ、ハナダの洞窟にいたやつ、捕まえてるんだよな」
ミュウツーのことだろう。
グリーンに言った覚えはないけれど、博士から聞いたんだろうか。
ぼくがうなずくと、グリーンはちょっと考えるそぶりをした。
「どうせヒマだろ?…おまえさ、シオンのフジじいさんのとこ行って、捕まえたって報告してこいよ」
「……?」
「……たぶん気にしてるだろうから。安心させてやれよ」
たしかに、グレン島で起きたことを考えれば、報告してあげたほうがいいかもしれない。
グリーンに言われるまで、思い当たりもしなかった。
言われたことは理解できたけど、なんでグリーンがそれをぼくに今言ったのかが、妙にひっかかった。
「……行くけど、なんで急に?」
「……ヒマそうだからだよ」
そう言って、グリーンはぼくをジムから追い出した。
説明する気はないみたいだった。
諦めて、ぼくはその足でシオンへと向かった。
◆
シオンタウンは記憶にある町とは少し違っていた。
ポケモンタワーはラジオ局になっていて、新しい建物も増えている。
なんとなく雰囲気が明るくなった気がした。
それでも、足を止めると、どこかに静けさが残っている。
騒がしい町じゃない。
記憶をたどりながら、フジじいさんを探し歩いた。
町の人に聞いて、花に囲まれた建物の中に入った。
建物の奥、日差しが差し込む窓のそばに、その人は立っていた。
足音に気づいて振り返ったフジじいさんに、軽く会釈をする。
「……戻られてたんですね」
フジじいさんは一瞬目を丸くしたあと、穏やかな声でそう言った。
ぼくが行方不明だったことは、ここにも届いていたらしい。
うなずくと、「良かったです」とフジじいさんは何度もうなずいていた。
どこへ行っていたのか。
どうしていなくなったのか。
そういうことは、何も聞かれなかった。
何を追及されるわけでもない。
ただ「戻ってきてよかった」と何度も言われて、ぼくはだんだん居たたまれなくなってきた。
ぼくはその居心地の悪さをごまかすように図鑑を取り出した。
ミュウツーのページを開いて、捕まえたことを伝える。
「もしかして、伝えにきてくれたんですか?」
またうなずく。図鑑をしまって、代わりにミュウツーが入っているボールを取り出した。
フジじいさんは、それを目を細めて見つめた。
「……生きていたんですね。……よく捕まえてくれました」
「……強かった」
三年前に捕まえたときのことを、今も思い出せる。
暗い水音。
湿った空気。
奥からこちらを見ていた、強すぎる気配。
あれは、死闘だった。
その時のことを思い出していると、フジじいさんが静かに涙を流していた。
慌ててボールをしまい、そばに駈け寄った。
「……ああ、ごめんなさい。安心して、思わず。ありがとう」
背中をさすると、フジじいさんは繰り返しありがとうと言った。
ありがとう。
ありがとう。
その言葉を聞くたびに、胸の奥に重いものが溜まっていく。
この人は、待っていたんだろう。
ミュウツーがどうなったのか。
生きていたのか。
もう苦しんでいないのか。
それを、ずっと。
それなのに、ぼくは三年も待たせた。
もっと早く来られたはずだった。
ちょっと考えれば、わかったはずだった。
「……ごめんなさい、……ほんとはもっと、ずっと早く来れた」
声に出すと、余計にその重さがはっきりした。
あの時のぼくは、自分のことしか考えていなかった。
自分の都合で山にいて、その間、この人を待たせていた。
三年。
三年、待たせた。
「謝らないでください。……誰しも戻れない事情のひとつやふたつ、あるものでしょう?」
肩に手が置かれて、現実に戻ってきた。
フジじいさんは泣き止んでいて、代わりにぼくが泣いていた。
「……どうしよう、ぼく、謝らなきゃ」
口に出してから、誰に、と考えた。
考えるまでもなかった。
まだ、謝れてない人がいる。
だって、待ってたって言わなかったから。
怒ってるとも言わなかったから。
「レッドくん」
フジじいさんの声が、静かに響いた。
「謝りたい人が、いるんですね」
「……うん」
「……三年、待たせてた」
言葉にするたび、こめかみに力が入った。
「なのに、なにも言われなかった」
「だから、謝れなかった」
母さんたちみたいに怒ってくれればよかった。そうしたら謝れた。
待ってたって言ってくれればよかった。そうしたらごめんって言えた。
けれど、何も言われなかった。
言わせてもらえなかったんだと、気づいた。
「……どうしよう」
どうしようもない。全部自分が蒔いた種だ。
フジじいさんは、しばらく黙っていた。
窓の外で、花が小さく揺れている。
やがて、彼はぽつりと話し始めた。
「レッドくん、私も昔、姿を消したことがありました」
「きみよりひどいです。何十年と、姿を消していました」
フジじいさんは、どこか遠くを見るように目を細めた。
「それでも、待ってくれていた人がいました。私は謝りました。……いや、謝らせてもらえたというほうが、近いのかもしれません」
謝らせてもらえた。
その言葉が、妙に耳に残った。
「謝ることは、大切です。けれど、謝れることは、ありがたいことでもあります」
フジじいさんは、ゆっくりと建物の中を見渡した。
ぼくもつられて顔を上げる。
花。
窓辺。
静かに祈るための場所。
フジじいさんは、それを大切そうに見つめていた。
「一度離れた人間が、また同じ場所に立つには、言葉だけでは足りないこともあるのでしょう」
「……言葉だけじゃ、足りない」
「ええ」
フジじいさんはうなずいた。
「私はシオンタウンに来て、いろんな人たちと、ポケモンの弔いをしてきました」
「私にしかできないことが、ここにはたくさんありました」
「君も、君にしかできないことを、見つけるといいのかもしれませんね」
フジじいさんは、こちらを見て穏やかに笑った。
ぼくにしかできないこと。
グリーンじゃできないこと。
その言葉を、胸の中で何度か繰り返した。
◆
「ぼく、旅に出る」
シオンタウンから戻ったあと、仕事終わりのグリーンを捕まえてそう告げた。
空はもう夕方で、トキワの町は薄い橙色に染まっていた。
ジムの裏口から出てきたグリーンは、こちらを見ても驚かなかった。
帰り道で考えた、ぼくにしかできないこと。
「先に行って、見てくる」
ジムに縛られたグリーンじゃ、できないこと。
むかし、グリーンが先にやっていたこと。
ぼくが、ずっと追いかけていたこと。
「色々見てくる」
先に行って見てくる。
グリーンが迷わないように。
いつかグリーンが旅に出たとき、道標になれるように。
これは、今のぼくにしかできない。
「……次は勝つよ」
言ってから、自分でもわかった。
本当は、ずっと気づいていた。
勝ってしまったら終わるんじゃないかと思って、ずっと引き分けにしてきたこと。
グリーンも、それを分かっていたこと。
でも、もう終わりにしなきゃいけない。
終わらせるためじゃない。
次に進むために。
「……そうかよ」
グリーンはこちらを向かなかった。
ただ、そこに立ち止まって、家の方角を見ている。
その横顔からは、何を考えているのかよくわからなかった。
ぼくはゆっくりとグリーンの前に回った。
カバンからバッジケースを取り出す。
緑色のバッジに手を伸ばす。
返そうと思った。
けれど、ぼくより先に、グリーンの手がそれをつまみ上げた。
「じゃあ、これはオレのだな」
「……」
「勝ったら返してやるよ」
グリーンはわざとらしくバッジを空にかざした。
夕方の光を受けて、緑色が小さく光る。
それを自分の上着の内ポケットにつけると、満足げに笑った。
「早く帰るぞ。夕飯なくなる」
そう言って、グリーンはぼくの横を抜けて家の方へ走り出した。
謝らせてはもらえなかった。
でも、受け取ってはもらえた。
あとは、勝つだけだ。
ぼくは少し前を走るグリーンを追いかけて、地面を蹴った。畳む